横浜シネマ・ジャック&ベティ30周年企画映画となる『誰かの花』が、1月29日(土)~ユーロスペース、ジャック&ベティほか順次全国にて公開される。
横浜シネマ・ジャック&ベティは横浜黄金町で30年営業を続ける2スクリーンの老舗の映画館。本作は、2021年に30周年を迎えるジャック&ベティの企画作品としてつくられた。
今回、本作主演のカトウシンスケさんに取材の機会をいただき、あて書きされたという脚本やご自身の役に取り組む工夫について伺いました。
■映画『誰かの花』
Story
鉄工所で働く孝秋(カトウシンスケ)は、薄れゆく記憶の中で徘徊する父・忠義(高橋長英)とそんな父に振り回される母・マチ(吉行和子)のことが気がかりで、実家の団地を訪れる。
しかし忠義は、数年前に死んだ孝秋の兄と区別がつかないのか、彼を見てもただぼんやりと頷くだけであった。
強風吹き荒れるある日、事故が起こる。
団地のベランダから落ちた植木鉢が住民に直撃し、救急車やパトカーが駆けつける騒動となったのだ。
父の安否を心配して慌てた孝秋であったが、忠義は何事もなかったかのように自宅にいた。
だがベランダの窓は開き、忠義の手袋には土が…。
一転して父への疑いを募らせていく孝秋。
「誰かの花」をめぐり繰り広げられる偽りと真実の数々。
それらが亡き兄の記憶と交差した時、孝秋が見つけたひとつの〈答え〉とは。
■映画『誰かの花』 カトウシンスケ インタビュー
▼あて書きされた脚本と実感の有無。読んでの感想
-奥田監督のコメントにキャストに対してあて書きをしたというものがありました。脚本を読んで、これは自分のための脚本だといった実感はありましたか?
カトウシンスケ
監督はあて書きしたとコメントされているのですが、あて書きされている印象はないですね。なので自分にあて書きされたという事は意識せずに拝読しました。
脚本を読んだ感想は面白かったし、やり甲斐があるなと思って嬉しかったです。ただ、自分がそのまま演じて戦える役だとは思えなかったです。
▼キャストの顔写真を待ち受けにして執筆された脚本
カトウシンスケ
奥田監督は今回の脚本を書く際に、キャストの顔写真をスマートフォンの待ち受けにしているといった話を伺っています。この人だというイメージがあったら、その人の写真を待ち受けにしていたそうです。
僕は戴いた脚本に対して、あて書きされているとは今まで感じたことが無いのかもしれません。それは僕が思っている僕と、他人が思っている僕が違うのもあると思います。
ー監督から、具体的にこういう風にあて書きしたんですといった話はあったのでしょうか?
カトウシンスケ
最近インタビューで奥田監督のあて書きの話を耳にしますが、僕は「え?そうだったの?すごい苦戦したんだけど」と思っています。
ただ、僕は脚本段階から監督と密にやりとりが出来たので恵まれていたと思います。そのやりとりを通じて得たものから「俺のこういう部分をピックアップして使ってくれているんだ。」と後々感じることが多かったです。
撮影に入る直前に監督と「コミュニケーションの作り方や、僕ならではのかわし方は、孝秋に近いと思っています。」と言葉を交わしたのを覚えています。「じゃぁ、こういうシーンでオーソドックスに行こうと思っていたけど、もうちょっと逸らした方がいいのかなぁ」と考えた記憶が蘇ってきました。
▼脚本への書き込み「~かもしれない」という視点
-カトウさんは脚本にいろいろ書き込むことが多いそうですが、今回も書き込みをされましたか?どんなことを書き込んだのでしょうか?
カトウシンスケ
時と場合によるのですが、今回も僕は脚本にいっぱい書き込んでいました。先日、他の作品のトークをした時に「脚本にこういうこと書いてあったよね」という話がありました。その時に「そんなこと書いてありましたっけ?」って思ったんです。撮影から公開までに時間が経っていて覚えていないことも多いんですよね。
なので何が書いてあるのかその脚本を読み返してみると、自分のメモが沢山書いてありました。「俺ってこんなこと考えてやっていたんだ」というのが新たな発見でした。
そこで『誰かの花』の脚本を読み返してみたら、変なことがいっぱい書いてありました。「〜かもしれない」という観点から、“ここでこういうことが起きるかもしれない・起きなくてもいいかもしれない”といった余地・余白を自分の中に残し続けることを考えていたんです。
事前に考えすぎてしまうと、そこから動けなくなってしまうことが怖いし、あまり決めつけないでいようというのが出発点でした。
先ほど監督との話をしましたが、100通りのパターンを考えても、102,103通り目のパターンをやれるように自分の中にストックしておくために今回も「〜かもしれない」をいっぱい書きました。
「こうなるかもしれない。こういったことが起きるかもしれない。起きないかもしれない」というのをずっと取っておくという作業を行いました。『誰かの花』では、孝秋の置かれている状況や抱えている過去の事故など、描かれないことが沢山あります。描かれないことがあるので「〜かもしれない」と考えて、想像力で補完していくことが多かったです。
今回、なんでこんなことをメモしているんだろうと思ったのは、浜志”まん(ケーキ店)のシーンに書かれた内容です。そこには“ここは前に親父に連れて来られて、ケーキを買ってもらったんだよなぁ”と書いてあったんです。誰にも全く伝わらないだろうし、誰かに伝えようとしていない書き込みだと思います。
僕は“奥田監督は絶対に分からないことを抱えまくろうと思って、脚本をつくっていた”と考えています。それは奥田監督がそもそものテーマとした“言葉にしようのない感情に置きどころをつくること”で、それって白黒つかないんですよね。
「これは良くない、でも良い面もあります」といったことが、世の中のほとんどだと思います。そういった一つに決めつけない・わからないということを大事にしていたんだなと感じます。
シーンや役のことを考えると、その役の人物が思っていることや、このシーンで伝えなければいけないという責任感で、何をするべきか・表現するかに陥ってしまうと思います。
そうではないことを考えたときにどうなるんだろうというのを僕はたくさん考えました。その内の一つとして顕著に表れたのが、洋菓子店のシーンでの孝秋の親父との思い出についての台本への書き込みになります。
その書き込みは孝秋がどういう想いを抱えているのか、僕が以下のように思い巡らす入り口になります。
・孝秋はこういう場面で親父を思い出す人なんだ、親父のことを好きなんだ。
・親父は認知症が進行して僕のことが分からなくなっている。
・兄の名前だけが呼ばれて、あたかも僕がいなかったかのように扱われて傷ついている。
・だけど、寄り付きもしなかった実家に母親に言われるがまま足繁く通うのは親父が好きだから。
・・・かもしれない。というように、孝秋について、描かれていない・分からないことをたくさん書いていたら、何かが分かって来ました。もちろん、僕が分かった気になっているだけかもしれませんけどね。
今回の作品で僕は、孝秋を分かってもらうため・孝秋が活き活きとするために何かを考えたり、行動を起こしたりすることが多かったと思います。
▼共演する中での学び
-カトウさんのお芝居への取り組みは、ひとつの方法にとらわれないやり方を感じました。本作でのベテラン俳優、同世代、子役と様々な俳優がいらした現場で学んだことはありますか?それにはどんなものがありましたか?
カトウシンスケ
学びしかないですね。そこにはお相手のキャリアがどうこうといったものはありません。相手と魂をぶつけ合ったときに、自分が100通りのパターンを考えていたとしても、返ってくるものはそのうちのいずれかに当てはまることはほとんどないんです。「あ、思った通りの感じが来た!」は来ないんです。それって答えとして物凄いことだと思います。
もちろんキャリアがある人たちは、そこに対する深さが違います。この瞬間にこんな事までできるんだと気づくことがあります。そういうものを求めて演技を真剣にしているところが我々俳優にはあると思います。
僕が息子“孝秋”である時に、吉行和子さんという存在を飛び越えて、母親“マチ”としての表情にハッとしてしまったりします。
高橋長英さんが短い相づちで「あっ…あっ…うん…うん…」と頷いて、僕“孝秋”の目の前から去って行く“親父”の姿を見た時にも衝撃がありました。
「こんな親父の姿を見るはずじゃなかった」というショックを感じるようなことが、全てのキャストにありました。
篠原篤さんの岡部にも、コミュニケーションのとれない偏屈な奴だと思っていたら、彼の人生にはもっと深いものが背負われていました。太田琉星くんも子供だからといって指示通りに動いているわけではありませんでした。
子どもは子どもなりに親、友達、学校などに対して真剣に生きていると思うんです。
監督が書くシナリオを通じて、こんなに表現ができてしまうんだと思いました。彼らの人生を目の当たりにするので、それが僕には衝撃的でした。
俺は「〜かもしれない」というメモを取りながら必死に考えてやって「なんで俺はこの程度なんだろう」って落ち込みます。
琉星くんとの逆立ち一つ取ってもそうです。琉星くんの逆立ちが綺麗で、彼にはドヤ顔されました。「俺だって運動神経いいんだからね」と思ったら、結果的に、“ドターン”となって、「はい、カット!OK!」となりました。
「でも、それが孝秋だよな」って、僕は孝秋のせいにしました。
▼辛く楽しい撮影
-カトウさんは本作に対し「辛く楽しい撮影」とコメントされていました。辛かったこと楽しかったことにはどんなものがありますか?
カトウシンスケ
僕は、表現活動における辛いことって楽しいと思いたいんです。このシーンの撮影が辛かったというよりも孝秋や家族が抱えた過去の事故は想像を絶するし、その後の彼らはその先何年ここまで生きてきた人生も想像を絶するし、それに寄り添わなければいけないこと全てが僕としては辛いことです。
できればもっと気楽に生きていたくて、西インド諸島の暖かいビーチでのほほんと暮らしたいです。そんな辛いところに自分の人生も差し込みながら、作品や孝秋のためにやれることを精一杯やらなければいけない仕事だからしんどいし、辛いですね。
それは楽しいかというと違うのかもしれませんが、好きだからやっています。だから僕にとっては辛くなるほどのめり込める、自分の人生を注ぎ込める幸福な現場でした。
数か月準備して1ヶ月くらいの撮影ですけれど、僕は人生を通して向き合って、孝秋のために僕の小指が一本折れてもいいなという気持ちになれる作品に巡り会えました。
それはやり続けていて楽しいです。「やりきれた!」みたいな瞬間は僕にはないです。毎回カットがかかるたび、監督に「大丈夫だった?」って聴いていたら、途中から鬱陶しがられました。でもそれが僕の癖なんです。これが監督にとっての100%のシーンなのか気になってしまうんです。
僕は撮影が終わるまで楽しいと思える瞬間はないです。それだけ辛くなれることは良い事だと思います。監督や僕の思いや、キャストやスタッフが注ぎ込んだ何かを感じて、映画を観た人もそっとそばにおける物語として思ってくれたら嬉しいです。
▼ひとり話し続ける特徴的なシーン。鉄工所。
-鉄工所で、カトウさんがひとり話し続けるシーンが印象的でした。
カトウシンスケ
奥田監督からは、“教会で神父さんに自分の罪を打ち明けるイメージ”だと伝えられました。鉄工所のシーンは、孝秋が実際にやってしまったこと・前日に感じた感想を吐露していたり、言い訳をしているので、本音に近いものが出るところだという気がします。
話し相手は聖職者ではなく職場の同僚で、社会性を帯びている場所だと思います。孝秋は素直に悲しめなかったり怒れなかったり、そんな行動や発言することができないタイプだと思います。鉄工所のシーンでは、個人的なものを吐き出したいけど吐き出せないという孝秋が作っている言い訳に思えるのではないでしょうか。
孝秋は同僚に意見を求めているわけでもなく、自分の気持ちをこうだと伝えられるわけでもなく、ただ自分の中に溜まっている何かを出し続けたいんだと思っています。
それがないと孝秋は精神的にしんどくなってしまう人物かもしれません。それを感じて同僚は無視している・無視してくれているのかもしれないと思っています。「同僚が相槌を打たないのは不自然じゃないか」という意見もあると思います。
僕は同僚は多分無視してくれているんだと思います。孝秋の身の回りで起こった事故についての話は毎度のことで、話を聴いてはいるけど、内容についてまではそこまで理解しようとしていないと思うんです。
そういう距離感が孝秋にああいった一方的な発言をさせるし、孝秋は楽になれるんだと思います。孝秋は自分の本心や傷から上手に逃げている・逃げられている人物だと思います。だからこそしんどいのかもしれません。
孝秋自身が気づいていること・いないことがあるので、自分が口に出すことで、「俺ってこういう風に考えているんだ」とか、「こういう風に思ってしまっていたんだ」ということに気づくんだと思っています。
「親父は何もわかってないね」と言いながらも、それは言葉通りではなく、
それに対する感想を抱いていることに孝秋は気づいているんだと思います。だから茶化したりして、「ダメだなあれは」とか「ご飯を何食ったか思い出せない」とかいって誤魔化すんだと思うんです。
孝秋はああいうところがないと気付けないし、気づかないと逃げられないし、向き合おうと思っても向き合えないだろうし、それがないとどこかで彼は破綻するのではないかと僕は思いますね。
▼鉄工所と対照的なエレベーターのシーン
-一方的に話し続ける鉄工所のシーンと対照的で、聞き役に回ったりするエレベーターのシーンも印象的でした。
カトウシンスケ
エレベーターで会った人の話を聴くというのは孝秋らしからぬ行動ですよね。それぐらい状況が追い込まれていることを感じます。
「灯さんが何かを知ったのかもしれない」とか、「もっと全然知らない話が出てきたらどうしよう」とか、孝秋の中でも疑念が高まっているし、正しさとして何をするべきなのかを思い悩んでいるからこそ、聞かざるを得なくなったと思います。
エレベーターに乗っている灯さんの姿を見たら、「階段で降りるんで」といって逃げられるし、携帯をイジるふりをして気づかないことを装うとか、孝秋はそういうことをする人物だと思うんです。
隠し事をしている・悪い事をしているから良い事をしたい。だから相太くんに付き添って家まで送ろうとするし、灯さんには「僕で良かったら話を聴くので」と言ってみたり。
それは、彼女一家に対しての罪の意識があるからだと思うんです。
そういう気持ちって止められないですよね。逃げられる確証があったからといって、「ウチじゃないですよ」ともいえないし。もしかしたらという一縷があれば逃げられないというか。
それは兄貴の事故のときに孝秋の家族が抱えたことで、あの時、兄貴が出かけるのを止めていれば、ひとことかけていれば良かったとか、それは誰しもが思うことだと思います。
「僕がこうしていれば…」というタラレバで、それをしなかったが故に孝秋としては兄を。両親としては長男を失ったと考えてしまうその思いは止まないですよね。
「止めましょう」といってもなかなか抜けられないことだと思いますね。だからこそ、親父の家族に対する想いや、母親の「笑って笑って」という言葉で進んでいこうとしているのだと思います。
孝秋は忘れないでいる事で、逃れられなくなっているのかもしれません。エレベーターのシーンでもその為に灯の言葉を聞いて、何かが胸につもり、何かに気付いていくのだと思います。 さらに言えば、相太の無表情な佇まいに暴力性を感じてしまったり、自分のようになる可能性を秘めているのを孝秋は相太にみているような気がします。
▼完成した作品をご覧になっての感想
―冒頭では脚本を初めて読んだ時の感想を伺いました。仕上がった作品をご覧になっての撮影時には分からなかった気づきや感想はいかがでしょうか?
カトウシンスケ
完成した作品を最初に観るときは僕は胃が痛かったです。役者はみんなそうらしいのですが、やれてないなとか自分のことばかり気になってしまうんです。
僕は孝秋をダメなやつだと思っていたけれど、複数回観ていく中で、思っていたよりも頑張っているなと感じました。
それは奥田監督が、孝秋に前を向かせたかった気持ちが強いんだと思いました。もっと前向きではない映画だと思って僕はやっていたので、孝秋はそうならざるを得なくなっていると思っていたんです。けれど、前向きというか決意がある映画になっていたと思います。
分からないことも多いし、うやむやになったままのものも多いし、正しくないこともとても多いし、孝秋の行動として、沢山の人を傷つけてしまっている映画だと思います。
そんな駄目なやつでも生きていくし、生きていかなければいけない。それはなんでかっていうとこれ以上、親父とオフクロを傷つけてはいけないという考えが孝秋にあると思います。
孝秋はだらしないし、なるべく家にいたくないという気持ちがあると思いますが、後半のシーンで親父を走って探しに行ったときは、また風が強い日でしたし、嫌な予感もしつつ、何かある決意みたいなものが見える行動だなって、僕は思いました。
両親を目にした孝秋はヘラッとしていますけど、それまでだったら孝秋って、両親がやってくるまで歩み寄らずに立ち止まっている人だと思うんです。
そこに歩み寄りに行くというのは、それまでの孝秋とはほんの些細なことなんですけど、違う行動に見えました。中途半端な表情をしているんですけど、でも足は動いてしまっているという。
逃げたりはぐらかしているつもりだけど、足は動いてしまっている孝秋に、それまでとは違う頑張り、勇気がみられる瞬間だなと思いました。
そう思うと、この映画のポスターのように親父に寄り添う感じで三人並んで歩いているのも孝秋らしくないですよね。
先に歩いているか、タラタラついて行くかしていると僕は思います。
実際にそうかどうかはわからないし、僕がこんなことを言ったら孝秋に怒られるかもしれないですけどね。
恥ずかしそうにしていますが両親に手を振り返す姿も孝秋らしくないですよね。冒頭で鏡で練習していたくらいだし。
当事者として自分の両親と向き合うようになったのかなって思いました。
映画の冒頭では窓越しに両親を眺めているだけで、走ってくる車の前に歩いてきた親父に「あぶないっ!」とは思うけど、体がピクッと動くくらいだし。
親父とダンスもですよね。
あれもやってはいるけど、付き合ってやってる態度が孝秋にみえるんですよね。
同じ地平に立ってない。
実際、後半孝秋が手を振りかえす其処は微妙に坂だから、下りて行くというわけではないで
すけど、両親と同じ高さ・目線まで下りて歩く孝秋の行動を見てびっくりしました。同じ地平に立って、自分の何かが動いてしまい、明るみになってしまったのかなと思ったりしました。
孝秋って意外と頑張っているんだなとか、これまで通りの様にはならないんだなという。これから密に当事者として目線を合わせて二人と生きていくんだなと思いました。ちゃんとしてるわけじゃないけど、すごく真剣に生きていっている事に驚きと感動とこれからの孝秋を思うとグッと歯を噛み締めてしまいました。
▼お客様へのメッセージ
-映画を身にいらっしゃるお客様向けにメッセージをお願いします。
カトウシンスケ
「楽しんでください!(笑)」
メッセージというと悩んでしまうんですよね、好きに見てもらえればと思ってしまうんで。
誰にでも起こりうる怖さがある映画な気がするので、この映画や孝秋やマチの行動をきっかけに、そういうことに孝秋のように目線を合わせて考えるきっかけになってくれたら嬉しいです。この映画をみている時間が良い時間になったらいいと思います。
重たいところもありますが、孝秋自体はそんなに重たく生きているわけではなく、マチさんは明るく生きていますし、そんな暗くシリアスに生き続けるのって、人って難しいんだなって思うんです。
生きるのに辛い人がいれば、孝秋みたいなヘラヘラしたやつだっているんだからと思ってもらえたらいいし、全然関係なくすごくハッピーに生きている人がいれば、こういう人たちもいるんだなと思ってほしいです。
苦しい状況の世の中になっていると如実に感じます。それは映画だけでなく、すべての人が何かしらを被っているだろうから、行動するための勇気はなかなか絞り出せないと思います。そういう行動が出来なくたっていいし、ずっと家にいたっていいし、外に出たくなったら出ればいいよって、映画を観た人に孝秋みたいなのもいるんだからヘラヘラ生きようぜって、自分なりの生き方が見つかると幸せだなって思いますね。
なんでもいいから生きていようって思います。なんでもいいから生きていてほしいし、映画を観る時間が良い時間になったらいいなって思います。今観ている115分がすごい退屈でも長い目で見て5年,10年後にふと、この映画が役に立つ瞬間が訪れるかもしれないから、無駄にならないといいなとおもいます。それを願うばかりです。
ヘア&メイク:ayadonald
■作品情報
誰かの花(Somebody’s Flowers)
■あらすじ
鉄工所で働く孝秋は、薄れゆく記憶の中で徘徊する父・忠義とそんな父に振り回される母・マチのことが気がかりで、実家の団地を訪れる。
しかし忠義は、数年前に死んだ孝秋の兄と区別がつかないのか、彼を見てもただぼんやりと頷くだけであった。
強風吹き荒れるある日、事故が起こる。
団地のベランダから落ちた植木鉢が住民に直撃し、救急車やパトカーが駆けつける騒動となったのだ。
父の安否を心配して慌てた孝秋であったが、忠義は何事もなかったかのように自宅にいた。だがベランダの窓は開き、忠義の手袋には土が…。
一転して父への疑いを募らせていく孝秋。
「誰かの花」をめぐり繰り広げられる偽りと真実の数々。
それらが亡き兄の記憶と交差した時、孝秋が見つけたひとつの〈答え〉とは。
出演:カトウシンスケ 吉行和子 高橋長英
和田光沙 村上穂乃佳 篠原 篤 太田琉星
大石吾朗 / テイ龍進 / 渡辺梓 / 加藤満
寉岡萌希 / 富岡英里子 / 堀春菜 / 笠松七海
監督・脚本:奥田裕介
撮影:野口高遠
照明:高橋清隆
録音:高島良太
衣装:大友良介
ヘアメイク:ayadonald / 大久保里奈
制作:佐直輝尚
助監督:松村慎也 / 小林尚希 / 高野悟志
音楽:伴正人
整音:東遼太郎
エクゼクティブプロデューサー:大石暢 / 加藤敦史 / 村岡高幸 / 梶原俊幸
プロデューサー:飯塚冬酒
製作:横浜シネマ・ジャック&ベティ30周年企画映画製作委員会
配給:GACHINKO Film
2021年|日本|115分|5.1ch|アメリカンビスタ
© 横浜シネマ・ジャック&ベティ30周年企画映画製作委員会
公式サイト http://g-film.net/somebody/
公式Twitter https://twitter.com/dareka_no_hana
2022年1月29日(土)より横浜ジャック&ベティ、ユーロスペースほか全国順次公開